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踏切を訪ねて

 いろいろなテーマで続けてきた「まち歩き」ですが,今回は身の程知らずにも「踏切」というテーマを提案してしまいました.とりわけ踏切に興味があったわけでもなく,遮断機が下りっぱなしで遅刻した思い出しかないのに.しいて言えば,踏切の近くに住んでいたので,あのカンカンという音とともに,馴染みのある光景だったということでしょうか.とりあえず踏切について調べてみることにしました.


踏切について


 一般的な踏切はだいたい図のような設備で構成され,このような名称で呼ばれています.

 ただし名称も設備も,鉄道会社,路線,機械の製作会社などによって違い,すべてこのとおりというわけではありません.私がずっと「遮断機」と言ってきた黄と黒の棒は「遮断桿」が正しく,遮断機は遮断桿を上げ下げするための機械だと知りました.

 また踏切にも種類があって,警報機や遮断機(遮断桿)など,図にある設備を備えているのが「第1種踏切」,警報機はあるが遮断機はないのが「第3種踏切」,警標(クロスマーク)だけで警報機も遮断機もないのが「第4種踏切」です.「第2種踏切」は警手が来て遮断機を操作する踏切でしたが,現在では無いそうです.


 こうした踏切の種類,機械の形や配置,線路と道路の交差具合,踏切のある場所,カンカンという警報音に至るまで,設置された時代や地方,また路線によって違いがあって,それが踏切の“個性”であり“おもしろさ”でもあるようです.


踏切マニア・フミキリスト

 『踏切天国』/『踏切の世界』/『日本珍景踏切』/『日本“珍々”踏切』……など,踏切に関する本や,雑誌に掲載された文章は予想外にたくさんありました.そこにはY字になった踏切やお寺の境内にある踏切,廃線に残された踏切,鉄道以外の踏切など,確かに“おもしろい”,“珍しい踏切”が満載でした.そして“踏切マニア”や“フミキリスト”と呼ばれる一定数の踏切ファンがいることも知りました.

 作家やコラムニストにも踏切好きは多いようです.石田千には各地の踏切を訪ねたエッセイ集(『踏切みやげ』/『踏切趣味』)があり,泉麻人や堀江敏幸も都内の踏切巡りの文章を書いています.地図や地名の専門家・今尾恵介は「勝手踏切」や「パーマ屋踏切」など,全国のおもしろい名まえの踏切を訪ね由来を考察しています(『ゆかいな珍名踏切』).

 こうして調べたり読んだりしているうちに,少し興味が湧いてきました.でもこれらの踏切は全国区です.はたして市内の踏切だけで「まち歩き」が成立するのだろうか.不安になりましたが,腹をくくるしかありません.東武野田線(アーバンパークライン)の踏切を巡ると決めました.大宮区と北区の間を走りぬけ,見沼区から岩槻区を横切るかなり長い路線です.ドキドキしながらの出発でした.


さいたま市の踏切

 市内には多くの鉄道路線が走っていて,こんなにたくさんの駅があるのに,よく見ると踏切は市の北側を走る高崎線,宇都宮線,川越線,東武野田線にしかありません.そのわけは,南側を走る武蔵野線,埼京線,埼玉高速鉄道が,最初から踏切のない立体交差だったからです.京浜東北(高崎・宇都宮)線にもかつて踏切があったのですが,立体交差や廃止により現在では大宮駅以南に踏切はなくなりました.1965(昭和40)年の『埼玉新聞』(4月2日)には「国鉄大宮―赤羽間 四年間で踏み切り全廃/統合し立体交差化」という見出しの記事が掲載されています.南側に踏切がなくなったのはこれ以降のことです.


いよいよ踏切巡り

【第4号踏切~第9号踏切】

 東武野田線(以下「野田線」)の踏切には,それぞれに「野第〇号踏切道」という正式名称がついていて,〇には大宮駅から近い順に1,2,3……と数字が入ります.大宮駅を出て最初の駅は北大宮駅,最初の踏切は北大宮駅を過ぎてすぐの所にある「野第4号踏切道」(以下「〇号踏切」)です.でも最初の踏切なのになぜ「4号踏切」なのか?

 「1号踏切」は現在大栄橋になっている所にありました.高崎・宇都宮・川越・野田線と多くの線路が通っていたため,開かずの踏切として有名でした.そばに跨線橋(レールを再利用したものとか)があったものの歩行者専用で,中には自転車をかついで渡る人もいたそうです.1956(昭和31)年陸橋(大栄橋)工事が始まり,1959(昭和34)年に一部を残して完成,このときから歩行者・自転車・バイクだけは通行可能になりました.自動車が通行できるようになるのはさらに2年後の1961(昭和36)年.全面開通まで長い道のりでした.

 「2号踏切」は,氷川神社の裏参道をそのまま西へ進む道(現在の焼き肉店脇の道)の先にありました.JR側の名称は「土手宿第1踏切」.高崎・宇都宮線の立体交差に伴い1964(昭和39)年廃止されました.今この道は突き当りになっています.友人の家が踏切の先にあったので,ここを渡って頻繁に遊びに行った,個人的には思い出深い踏切です.

 

 「3号踏切」は旧中山道と交差する「土手町中山道踏切」.車の通行量が多いのに,宇都宮線と野田線が短い時間間隔で走っていますから,“いつも渋滞している”と何度も新聞に取り上げられていました.立体交差の完成は1967(昭和42)年.現在の「土手町地下道」(アンダーパス)です.こうして1~3号踏切がなくなったため,4号踏切は大宮駅を出て最初の踏切になりました.この踏切までは野田線の線路とJRの線路が並んで走っていて,JR側の名まえは「乗馬踏切」です.機械や設備をはじめ路面の材質まで,両者の違いが目に見えてわかるおもしろい踏切です.一番わかりやすいのは遮断桿で,野田線には“安全確認”と書かれたビニールとベルト(のようなもの)が,ひらひらとついていることです.この先も野田線の踏切は同じ遮断桿でした.警標(クロスマーク)の模様も違います.これはJRの方が一般的で,4号踏切のヨコ縞模様は野田線の中でも珍しい存在です.

 4号踏切を過ぎると線路は宇都宮線から離れ,次の大宮公園駅まで踏切は5号,6号,7号と続きます.後にわかったのですが,こんな短い距離なのに数字が欠けず順に続くのは,なかなか稀有なことなのです.この3か所はJRと同じ普通の警標ですが,大宮公園駅のすぐ手前にある「7号踏切」の注意柵がおもしろい,――昔の“木の枕木”を黄色く塗って再利用したようにも見えます.懐かしいような,暖かい気持ちになりました.


 次は「8号踏切」,ではなく「9号踏切」です.8号踏切は産業道路にある「盆栽陸橋」に変わったのでしょう.9号踏切は遮断桿が片側に1本だけの(2本が両側に開くものが多いのに)小さな踏切です.ここにも注意柵の手前に7号踏切で見た枕木のような柱が数本立っています.色が塗られていないのでさらに素朴感がありました.大型車は通行できませんが,自転車やバイクをはじめ人通りは結構ありました.ここまで来ると空が広く感じられます.


【幻の10~17号踏切】

 この先で野田線は見沼代用水西縁を渡ります.見沼の耕作地の中を走って,さらに芝川を渡ると見沼区.道は線路に近づいたり離れたり橋が無かったり――地図は見ていたのですが,だいぶ大まわりして次の「18号踏切」にたどり着きました.大和田駅のすぐそばの踏切です.


 9号踏切の次がいきなり18号踏切,――8か所も抜けています.廃止されたということでしょうか.もう一度2023年の住宅地図と『見沼区ガイドマップ』を確認しましたが,やはりこの間に踏切はありません.立体交差化されたと思われるのは,芝川の鉄橋を渡ってすぐのところにあるトンネル,第二産業道路にあるアンダーパス「大和田地下道」,もう一つ歩行者用の地下道の3か所くらいです.

 ということは5か所廃止されたことになります.1980年の住宅地図を見ると,見沼代用水西縁の手前に線路と斜めに交差している道!――これは10号踏切だったのではないか? と考えたり,芝川の土手にある道もかつては踏切でつながっていたのではないか? と思ったり,線路の両側につながる道があると踏切跡か? と疑ってみたり,幻の10~17号踏切の痕跡を探しながら歩いていました.もちろん特定には至りませんでしたが,路線の開業から約95年,踏切どころか停車駅すら変わっているのですから(岩槻駅の前後にかつては「加倉駅」と「渋江駅」があった)仕方ないと思うしかありません.

 さて,ここまででまだ18号踏切.最終は岩槻区の「55-2号踏切」ですから,先の長さを考えて呆然としてしまいました.      

(記 並木せつ子)

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