top of page

“不思議な名まえ”のバス停を訪ねて

 市営霊園への墓参りや,やどかり情報館に行くとき,私は大宮駅東口から「大谷県営住宅」行の国際興業バスに乗ります.開成高校を過ぎ芝川を渡り,「日大前」…「庚申塚(こうしんづか)」…「片柳郵便局」…「御蔵(みくら)白岡(しらおか)」などを経て「向(むかい)大谷(おおや)」のバス停まで.年に数回とは言え30年以上このバスに乗っているので,ぼんやりアナウンスを聞くうちに“御蔵白岡って何だろう”と考えるようになりました.御蔵がこのあたりの地名というのは知っていましたが,白岡とは?と思ったのです.でも降りればすぐに忘れてしまうので,それはずっと疑問のままでした.その他にも見沼くらしっく館へ行く途中にあった「根木(ねぎ)輪(わ)」,別の路線にあった「導(どう)守(じゅ)」や「与(よ)野道(のどう)」も“不思議な名まえ”です.今回は,長らく疑問符がついたままだった“バス停の名まえ”を調べてみることにしました.

 さいたま市内には実に多くの路線バスがあります.そのバス停の名まえを見ると,多いのは現在の町丁名や,郵便局・学校・区役所・病院・公園などの施設名,また天沼神社・日枝神社・観音前・女体下のような寺社に関わる名まえ,神明橋・堀の内橋・念仏橋など橋の名まえ,六間道路・日の出通り・染谷新道・白樺通りなどの道路名が多いようです.それに加え意外だったのは小字(こあざ)名や旧村名が多いことでした.

「御蔵白岡」も江戸時代に使われていた村の名まえでした.古くは御蔵村と白岡村という別の村だったのが,御蔵白岡村になり明治初期に御蔵村に改称されました.今は御蔵という大字になっています.そう言えば浦和(北浦和)駅から,「御蔵白岡」を経て「岩槻(宮下)」方面へ行く東武バスに,


「御蔵(みくら)騎西屋(きさいや)」「御蔵火の見下」というバス停があったのを思い出しました.これらと区別するために「白岡」をつけたのでしょうか.この二つの「御蔵〇〇」は2020年の初め頃までありましたが,21年版の『さいたま市バス路線マップ』から,「鎌倉公園入口」「片柳保育園前」に名まえが変わり,今は「御蔵白岡」だけになってしまいました.

「根木(ねぎ)輪(わ)」は大宮駅東口から「浦和学院高校」や「浦和美園駅」方面へ行く途中にあるバス停です.旧片柳村にあった小字名で,禰宜(ねぎ)谷(やつ),根木王なども使われていました.「導(どう)守(じゅ)」も大宮駅東口から出ている複数の路線にあるバス停で,旧中丸村(南中丸)にあった小字名です.童子(どうじ),堂地(どうち),童寿,童授なども使われていていました.どの地名も語源には諸説あって特定するのは難しいようです.

「与(よ)野道(のどう)」は大宮駅から出ている「中川循環」にあるバス停で,これも小字かと思ったのですが,そうではありませんでした.与野道というのは“与野へ行く道”なので,中山道のように1本の決まった道ではなく市内のあちこちにあります.『武蔵國郡村誌』という江戸時代の村について調べられる本には,各村の主要な道路も記載されているのですが,与野道は川越道とともに,中山道の西側(西区や桜区など)の村に多いようです.浦和区の常盤には与野道だったと伝えられる道があり,これも中山道から西へ曲がる道です.浦和宿には「与野道(よのみち)通(とおり)」という字地もありました.ところが中山道の東側にある見沼区の村々は,岩槻道や原市道が多く与野道は見当たりません.

 明治35(1902)年の『埼玉縣営業便覧』の中にある大宮駅付近の図を見ると,吉敷町のあたりに<与野道>,今の南銀座通りに<与野新道>と記されています.また『Acoreおおみや』No.40(2019年発行)にも,昭和の初めころの話として<大宮から与野本町へ行くのに,“与野新道”という道路を通って行った……途中に,国鉄の大宮操車場を渡るための踏切があった>という思い出が綴られています.こうしたものを読むと,史料や文書には残っていなくても,地元の人びとにとっての「与野道」や「○○道」は至るところにあったのではないか,そんな気がします.

 

 与野道が小字名でないことはわかったので,“与野への道”があるかどうか確認するため,久々に「中川循環」のバスに乗ってみました.芝川を渡ってすぐ右(南)へ曲がり,台地の裾に沿って“中川分水通り”を走る路線です.「与野道」バス停を降りるとバス通りから分岐して西へ行く道があり,曲がり角に庚申塔が建っていました.そこには<文化七(1810)年/北 はらいち/東 うらわ>と刻まれていて,道標となっていたことがわかります.与野とは書かれていませんが,古い道であることは確かです.

 帰宅後,明治18(1885)年の地図を確認すると,確かに円蔵院の下の方,現在の与野道バス停あたりから西方へ,上(かみ)山口(やまぐち)新田(しんでん)を横切る細い線があり,その地図記号には「徒小徑」という説明がついています.人が歩けるだけの畔道のような細い道だったのでしょう.その先にある台地上のうねうねと続く道をたどれば与野まで行けそうです.現在の地図を見ても,この道は山口橋で芝川を渡り,大原や上木崎あたりを抜けて与野へ行くことができます.地元の人びとが“与野道”と言い習わしてきたとしても何の違和感もありません.

 「与野道」の読み方ですが,初めて「中川循環」のバスに乗ったとき“次は「ヨノドウ」”というアナウンスを聞いてびっくりしました.ずっと「ヨノミチ」と思ってきたからです.浦和宿の字地「与野道通」には「ヨノミチ」と振り仮名がありました.小字は同じ漢字でも読みが違う例が珍しくありません.地元でどのように言い伝えられてきたかという違いではないかと思います.

改めて「中川循環」のバスに乗ってみて,この路線には他にも「大正坂(たいしょうざか)」「高鼻(たかはな)」「宝乗院下(たからじょういんした)」「上(かみ)山口(やまぐち)」「西浦(にしうら)」など,(私には)“

訳のわからない”バス停があることに気づきました.「大正坂」はバス停の近くに坂があり,上り口の石碑に<大正道>と刻まれていたので,すぐにこの坂のことだとわかりました.「上山口」は,すぐそばが上山口新田だからでしょう.でも「宝乗院下」は? 近くの台地上を探しても宝乗院はみつかりません.「高鼻」は台地のハナ(端・鼻)ということでしょうか? このバス停あたりは,台地と下の中川分水通りとの高低差がとりわけ大きく思われます.「西浦」になると見当もつきません.中川の町丁名でも大字でもなく,昔の字地でもない――でも停留所の名まえに,その場所と何の関係もない名まえをつけることはないはずです.改めて『武蔵國郡村誌』を調べ直してみました.

「宝乗院」は江戸時代まであった寺(円蔵院の末寺)で,明治4(1881)年廃寺になっていました.日本全国で多くの寺が廃された頃です.

「高鼻」については,旧高鼻村(大宮区高鼻町)と関連があったのではないか,という考えが芽生えてきました.それは中川村の西隣にある新右(しんう)衛門(えもん)新田(しんでん)の項に<東南は高鼻村飛地……西は高鼻村飛地と見沼中悪水(筆者註:芝川)を隔てゝ相対し…>と記載されていたからです.新右衛門新田の中には“東南に高鼻村飛地”があったというのです.バス停はそこに近く,芝川を隔てた“西にある高鼻村飛地”へ行く道もありました.その道の先,芝川に架かる橋は,いつ付けられた名まえかわかりませんが「高鼻橋」です.バス停付近の崖の高さを見ると“高いハナ”も捨てがたいけれど,気持ちは“高鼻村飛地”のほうに引きずられていました.どちらにしても私見ですが.

「西浦」は中川村ではなく東隣にある旧中野村(南中野)の小字でした.バス停は第二産業道路沿いにあり,いつのまにか境を越えていたのです.西浦は東浦とともに各地によくある小字で,西裏や東裏と書くところもあります.大門町(緑区)と下内野(しもうちや)村(西区)には西裏と東裏,円阿弥村(中央区)には西浦と東浦,両方がありました.


 さかのぼって調べてみれば,どれも“謂れのある”名まえばかり.他の路線にある“不思議な名まえ”のバス停も,小字名や昔の村名だったのではないかと考えるようになりました.それは「向大谷」(市営霊園の最寄バス停)の先にある「下田入口」の下田(しもだ)や,「八石(はちこく)」も旧大谷(おおや)村の小字名で,どちらも田んぼに関係する地名だったからです.


 そんな観点で見直せば,今まで利用したことのあるバス停にも思い当たる所があります.桜区の「十石田」や,南区の「辻五反田」「辻島田」です.これらも拾石(じゅっこく)田(だ),五反田(ごたんだ),島田(しまだ)という小字で,田んぼの名残を留めたバス停でした.

小字名のバス停はまだまだあります.西区の「赤羽根(あかばね)(指扇村)」,「新屋鋪(しんやしき)(指扇村)」(バス停名は「新屋敷」),「中郷(なかごう)(中野林村)」,「高木(たかぎ)(遊馬村)」.北区の「天(てん)神橋(じんはし)(加茂宮村)」,「苗木(なえき)(本郷村)」.桜区の「日向(ひなた)(西堀村」」,「櫃(ひつ)沼(ぬま)(田島村)」.中央区の「陣屋(じんや)」と「内道(うちみち)」(上峯村),「二度(にど)栗山(くりやま)」(下落合村).緑区の「駒形(こまがた)(中尾村)」,「吉場(よしば)(大牧村)」(バス停名「大牧吉場」).南区の「坊(ぼう)の在家(ざいけ)」「細野(ほその)」「明花(みょうはな)」(大谷口村),「大在家(おおざいけ)」「前耕地(まえこうち)」(太田窪村),「稲荷(いなり)越(こし)(広ケ谷戸村)」,「鎧町(よろいまち)(沼影村・曲本村)」(バス停名は「鎧」).岩槻区の「巻上(まきのへ)(末田村)」(バス停名「巻の上」)「高岡(たかおか)(鉤上村)」「峯(みね)谷(や)(尾ヶ崎村)」など…….また中央区の「小村田」は旧村名です.

 現在の町名でも大字でもなく,近隣にそれらの名まえを彷彿とさせる施設も無い,そういうバス停は小字名や旧村名である確率が高いと言えそうです.次回も“バス停”は続きます.(記 並木せつ子)

Comments


bottom of page