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踏切を訪ねて4・京浜東北線

更新日:10月2日


 本誌の取材のために東武野田線の踏切を歩いたことで,鉄道にも踏切にも関心がなかったのに,「にわか踏切ファン」になってしまいました.もとは大宮駅以南の線路に踏切がないことすら気づいていなかったのに……


 そのことに気づいたのは1997年,偶然読んだ本がきっかけでした.『奇跡の人』1)(真保裕一)という小説です.


……8年前に交通事故で危篤になった主人公の克己(31歳)は,8年間の入院生活を経て歩けるところまで恢復しましたが,事故前の記憶を失っていました.自分がどういう人間だったのか過去をたどっていくと,聡子という女性―かつて交際していたらしいが,今は結婚して北浦和の元町に住んでいる―にたどりつきました.克己は何度も北浦和を訪ね,ついに自分の過去を知ることに……というのが大まかなストーリーです.

 

 ところが私は筋とはまったく関係ないところ,<踏切を越え,ちょっと歩くと,緑に囲まれた大きな公園があった.……近代美術館,との標識が見えた(下線筆者)>という文章に「踏切?」とひっかかってしまいました.これは北浦和の東口から線路を越えて西口へ,美術館のある公園へ行く途中の描写ですが,そこに踏切がないことを知っていたからです.小説の年代設定は1996年ですが,そのころは既に「地下道」になっていました.フィクションだからと思っても,北浦和周辺が丁寧に描写されていたので余計気になったのです.


 「大宮駅以南に踏切が無い」ことを意識したのは,おそらくこのときが最初だったと思います.そのときはそれ以上踏み込みませんでしたが,このたび野田線の踏切を歩いたことで,「踏切のない京浜東北線」への関心が深まってしまいました.


いつ,なくなった?


 まずは先人たちが書いた文章の中から大宮駅以南の踏切を探してみました.

明治末期,常盤町(浦和区)の中山道沿いの商家で生まれ育った石井桃子は『幼ものがたり』2)の中で,近所に“番人のいる大きな踏切(現在の浦和橋)と,もっと小さい踏切が2つもあった”と書いており,家の周辺図には線路と交差する2本の道が描かれています.

『大正末期の浦和』3)には,“当時ガード(架道橋)はなく,浦和駅から北に番人のいる踏切と無人踏切が合わせて4つ,南には2つの踏切があった”と,著者の記憶に残る踏切が手描き地図とともに記録されています.

 

 ここまでは東北線と高崎線だけの時代でしたが,1932(昭和7)年,京浜線が大宮まで電化延長され京浜東北線が開通します.以下は開通後の文章です.

『ハモニカ長屋の頃;昭和二十年代の北浦和』4)には北浦和駅のそばに踏切があったことがわかる文章がありました.


<まず浦高裏通りを通って,北浦和の駅に出る.そしてその脇の踏切を渡って新国道へ>

<この時計は北浦和の踏切の近くにあったまつもと時計店で購入>

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 また,『昭和の浦和』5)によると――これも昭和20~30年代前半と思われますが,‟上木崎と針ヶ谷に踏切があり,針ヶ谷の踏切では夜など警手の鼻歌がスピーカーを通じて聞こえた”と,踏切に関する思い出が披露されています.


 『北浦和歴史再発見』6)には,‟北浦和駅の南側に開かずの踏切があった,北浦和―与野間には3,4か所の踏切があり与野駅手前の踏切も開かずの踏切で警手が常駐してた”と,住民からの思い出が寄せられています.これも昭和20~30年代のようです.


 ここまでは人びとの思い出の断片に残された踏切ですが,こんな話も伝えられています.北浦和駅の南側,線路沿いに小さな石造の観音像があります(写真3).半世紀以上昔,ここにあった踏切で事故死した子どもを供養するために建てられたとか…….しかし事故の記録はJRにも残っておらず,水道局が工事のため「縁の方」を探したときにも判明しませんでした.由来は謎のままだと『朝日新聞』(2014.4.25夕刊)に掲載されています.


 これらの資料により昭和20~30年代ころまでは,大宮駅以南にも踏切があったということがわかりました.


立体交差への道


 次は,踏切から立体交差への歩みを探してみようと思います.

 1932(昭和7)年,『東北線赤羽大宮間電気運転設備概要』という鉄道省が発行した資料によれば,まだ南浦和駅と北浦和駅はありませんが,南浦和あたりから大宮駅までの間に踏切が10か所,跨線橋,地下道,架道橋などの立体交差も数か所ありました.1931(昭和6)年に設置された浦和橋も「中仙道跨線道路橋」という名まえで掲載されています.


 1958(昭和33)年の『埼玉新聞』には<「魔の踏切」に渡線橋>という見出しの記事があります.事故の多かった砂田踏切(大谷場と岸町をつなぐ)に歩行者専用の陸橋が新設されたという内容です.


 1965(昭和40)年の『埼玉新聞』には<国鉄大宮―赤羽間/四年間で踏み切り全廃>という見出し.“昭和43年に完成予定の赤羽―大宮間の三複線化に対処するため,赤羽―大宮間の踏切を統廃合しすべてを立体交差化,既設の立体交差も改修を行う予定”という内容です.記事の中に,この時点でまだ存在していた踏切の名まえが載っていました.


 さいたま市の南から,八ツ道越谷,第二中宿,新道,松原,第一砂原,第二砂原,寺前,寺後,大原の各踏切(下線筆者).浦和―与野駅間に集中しています.このうち下線を付した踏切が廃止予定とされていました.また改修予定の既設立体交差は,南浦和道路橋,第一蕨道路地下道,砂田・中丸・第一鳩ヶ谷・第二鳩ヶ谷・越ヶ谷の各道路地下道,そして浦和道路橋(浦和橋)です.


 そして1968(昭和43)年の『市民と市政』203号(旧浦和市発行)には<京浜東北線で二分される浦和市内の交通は,人道橋としては与野駅手前の大原踏切を除いて全部立体交差が完成……しかし自動車を含めての『完全な立体交差の整備』は,まだこれからの課題>とあり,踏切の立体化がほぼ予定通りに進んでいたことがわかります.一緒に掲載されていた「市内の鉄道交差路」を,前出1965年の新聞記事と比べてみると,立体交差化への進捗状況がよくわかります(図1,図2).(架道橋,跨線橋,ガード,地下道などの名称は資料に掲載されたものを使用しました)


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1978年だった!


 1か所だけ立体交差の遅れていた大原踏切ですが,1975(昭和50)年の<待望の立体交差着工/与野駅南側の『大原踏切』>,1978(昭和53)年の<サヨナラ大原踏切>(いずれも『埼玉新聞』)という記事から,やっと陸橋ができ踏切が閉鎖されたことがわかります.また<これにより川口―大宮はすべて立体交差に>とありますので,大宮駅以南の線路から踏切が消えたのは1978年だったということがはっきりしました.――1979年版の『住宅地図』にはまだ「大原踏切」と,警手がいたことを示す「番小屋」が記入されています.

 

 そしてあの小説にあった踏切はたぶん北浦和駅南にあった「第二砂原踏切」で,1965~68年の間に「第二砂原地下道」(写真4)になったこともわかりました.現在は「北浦和地下道」と呼ばれています.


そして今……


 図3は現在の京浜東北線の鉄道交差路です.橋や地下道は1978年当時よりさらに増えて,課題だった東西の連絡道路も増えました.


 これまでの「踏切歩き」のように,南浦和から大宮駅まで線路沿いを歩いてみました.古いガードや跨線橋も残っていましたが,新しい道路に造られた新しい大きな架道橋・大きな地下道,新しい連絡通路などが増えていて,踏切の立体交差化だけに止まらない進化を目の当たりにしました.


 同時に沿線のタワーマンションの急激な増加も改めて実感しました.そのせいでしょうか,踏切の無い線路を歩きながら感じたのは空の狭さです.踏切のある線路をたどっていたときに見た空,あの広さを懐かしく思いながら歩いていました.

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 浦和統括センターの浦和駅長さんはじめ,職員のみなさんにお世話になりました.お礼申し上げます.              

 (記・並木せつ子)


文献

1)真保裕一:奇跡の人;角川書店,1997年

2)石井桃子:幼ものがたり;福音館,1981年

3)小島力:「うらわ文化」特集第15号,大正末期の浦和;浦和郷土文化会,2007年

4)田中薫:ハモニカ長屋の頃;さきたま出版会,2016年

5)「うらわ文化」特集第16号:昭和の浦和;浦和郷土文化会,2017年

6)さいたま市立北浦和図書館:北浦和歴史再発見,2014年


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