武州鉄道は昭和の初期に蓮田~川口間を走っていた「幻の武州鉄道」と称される鉄道です.1910(明治45)年に,武州鉄道の前身である中央軽便電気鉄道が川口~岩槻間の敷設免許を受けたものの,第一次世界大戦の勃発や不況,資金の調達不足などにより工事は停滞.その後,路線の見直しや武州鉄道への社名変更などを経て,1924(大正13)年に蓮田~岩槻間が開通します.申請してから既に14年が経過していました.
そして1928(昭和3)年に岩槻~大門間,1936(昭和11)年に大門~神根(川口市)間を延伸し,さらに赤羽まで延ばす予定もありましたが,営業不振のため1938(昭和13)年に解散が決定.開業してわずか14年後のことでした.東京へ出るのに,40分以上かけて蓮田へ行き,そこから東北本線に乗り換えるというのはいかにも不便です.加えて1929(昭和4)年には総武鉄道(東武野田線)の粕壁~岩槻~大宮間が開通したこともあり,武州鉄道の乗客数が伸びることはありませんでした.こうして「幻の」や「悲運の」が武州鉄道の枕詞のようになってしまったのです.
武州鉄道は,図のように東北本線の蓮田から現在の岩槻駅の東を通って,笹久保を斜めに南下,現在の埼玉スタジアム北側を通り,中野田付近から東北自動車道(122号バイパス)と同じ軌道を南下していきます.つまり現在の東北自動車道(野田~川口間)は“武州鉄道の走っていた線路跡”にあるということです.
かつて武州大門駅は大門宿の本陣と脇本陣の近くにありました.駅から御成道へ出る道は「停車場通り」と呼ばれていたそうです.また武州野田駅へ通じる道は野田青年団員をはじめ住民の勤労奉仕によって造られ,やはり「停車場通り」と呼ばれました.今は埼玉スタジアムにつながる道です.この工事に関する石碑が中野田の重殿社にあり<停車場道路工事記念><枕木朽ちる事あるも我等の努力は今なお石文に>と刻まれています.碑文のとおり,武州鉄道はほどなく廃業し石碑だけが残されました.
1974年の『埼玉新聞』に「消える武州鉄道の跡」という見出しの記事が載っています.<武州鉄道の跡が,東北高速道・岩槻―川口間の建設工事で消えようとしている>という内容です.また<岩槻市笹久保新田の田んぼの真ん中を分断するように高さ2㍍幅3㍍の土手が走っている.これが国道122号バイパスの浦和市部分ではそのまま路線に一致し,川口市まで伸びている>とも書かれていて,このころまで線路の盛り土部分が一部残っていたことがわかります.1969(昭和44)年の地図にはまだ,岩槻区の浮谷から笹久保新田を抜けて122号線に合流する,線路のような地図記号が確認できます.
また『さいたま市文化財調査報告書 12号』によると,伝右(でんう)川にかかる武州鉄道の橋の橋台が,2011(平成23)年までは埼玉スタジアムの北側に残っていたようです.私が初めてこの辺りに来た1967(昭和42)年には,まだ盛り土も橋台も残っていたわけで,ぼんくら部員であったのが悔やまれます.(記 並木せつ子)
出典:よみさんぽ 2022 Vol.42より
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