伊奈氏がやってきた
江戸時代に入る少し前,1590(天正18)年に関東に移ってきた徳川家康に仕えていた伊奈(いな)忠次(ただつぐ)が,現在の伊奈町小室に陣屋を築きました.忠次と長男忠政(ただまさ)は関ヶ原の戦いに参戦しています.
忠次は農政に明るく,家康から信頼され代官頭(だいかんがしら)を務め,また「備前守(びぜんのかみ)」とも呼ばれ,忠次が整備したとされる「備前」の名がついた水路や堤防が各地に残っています.
忠次が亡くなると,忠政が跡取りとして家を,次男忠治(ただはる)が代官(将軍に代わって幕府の領地を支配する役人)の仕事を受け継ぎました.
忠治が拠点にしたのが川口の赤山という地.この赤山陣屋と忠次・忠治のゆかりある西区の土屋陣屋を結んだ道が赤山街道,ということらしいのです.川口生まれの私は,あの赤山とこの赤山通りがつながっていたとは,と驚いたり,さいたま市ができる前にYou&Iプラン(与野・大宮・浦和&伊奈)というものがあって,「何で伊奈が入るの?」と思っていたことが全くの歴史認識不足だったと知りました.
伊奈忠治を訪ねて
忠治は,赤芝山という山を切り開き1629(寛永6)年に赤山陣屋を完成させました.現在も空堀や土塁が残っており,陣屋一角にある赤山歴史自然公園(イイナパーク川口)には,遊ぶ子どもたちを見守るように伊奈忠治像が佇んでいます.
川口市立郷土資料館で伊奈忠治の企画展が開かれていたので訪ねてみました.忠治は,水路や道,宿場を各地に整備しました.驚いたのは荒川や利根川を動かしていたこと.
例えば荒川は,現在の元荒川を流れていたのを熊谷のあたりで締め切る堤を築き,流れを変えました(荒川西遷〈せいせん〉).これによって元荒川や綾瀬川の水害が減り,荒川の水量が増えて船の行き来が盛んになり,秩父の木材なども運ばれるようになりました.また,下流に豊富な川砂をもたらし,砂型を用いた川口鋳物の発展にもつながったと考えられています.
前後して,見沼溜井(みぬまためい),赤山街道,中山道,日光御成街道など大宮台地周辺の開発が進展していきます.東京湾に流れていた利根川が太平洋に流れるルートに動かされていたことも初めて知りました(利根川東遷).
伊奈氏の業績を辿ることで,人々が自然に向き合いながら,知恵と労力を費やし暮らしの土台を築いてきたことがわかります.(記 永瀬恵美子)
~出典~さいたま市ホームページ>グラフ誌版広報誌「楽楽楽さいたま」秋葉一男・青木義脩編:埼玉ふるさと散歩 さいたま市,2003年川口市教育委員会文化財課:歴史絵本 伊奈☆忠治,2022年街道歩き旅.com>歴史街道あるき旅
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