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井沢弥惣兵衛

江戸幕府の財政を立て直した享保の改革を行った徳川吉宗(米将軍とも呼ばれた)が,見沼田んぼの開拓のために故郷の紀州より呼んだのが井沢弥惣兵衛為永でした.その時井沢はすでに60歳を超えていました.

井沢は,今もみぬま自然公園で見沼野を見守っています. 自然公園の駐車場を抜けると芝生が広がり,その一角に井沢の銅像があります. 井沢は土木技術の天才と呼ばれ,その部下たちと技術者集団を組織し,農民たちの話をよく聞き,親しまれていたそうです.封建時代にあっても身分の上下に関わりなく,人々を大切にしたと伝えられています.


井沢らは,見沼の周りを徹底的に調べ,その結果遠く利根川を水源とすることとし,利根川中流(現在の行田市)から60キロにわたる水路開削工事に着手し,わずか半年で従来の溜井に代わる見沼代用水を完成させたのです.工事には周辺の農民延べ90万人が動員され,幕府は2万両を投じ,1,200ヘクタールの新田が開発され,灌漑面積は12,600ヘクタールにも及んでいました.


見沼代用水について調べていくと,竜神伝説が大きな影響を及ぼしていたことがわかります.龍神の住処だった見沼を埋め立てて田んぼにするわけですから,龍神は居場所を失うわけです.井沢弥惣兵衛は住処を失った龍神にも心を砕き,井沢弥惣兵衛が一時的な住まいにしていた万年寺に龍神灯を祀って龍神の霊を慰めました.龍神は見沼田んぼと引き換えに棲む場所を失った動植物を象徴しているようにも思えます.人が生きるための開拓が自然を犠牲にする,……龍神はそのことを忘れてはいけないと伝えてくれているようにも思えます.

(記:椿原亜矢子・増田一世 写真:増田一世)


文献:市川正三(画文):井沢弥惣兵衛:見沼代用水土地改良区,2005

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