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100年後に残したいものは

1.御成街道とともにある丸家の人々

 日光御成街道の概要は前号で紹介されていますが,ご存じのように徳川家康が祀られている日光東照宮へ徳川将軍が参内するために江戸時代に造られた道です.それから400年余りの年月を経て,私にとっては,通勤時にいつもお世話になっている道路です.朝夕は交通量も多く,渋滞していることもしばしばです.私が頻繁に通るようになったここ20年程でも道沿いの風景は変わっていきます.この間まで植木畑だったり,雑木林だったところがトラックターミナルになっていたり,何かの工場になったり……

 今号では,1600年代から先祖がこの地に暮らしていたという丸志(し)伸(のぶ)さん(1963年生まれ)にお話を伺い,日光御成街道やその周辺に暮らしていた人々のことを考える機会にしたいと思っています.丸さんのお宅はまさに御成街道沿いにあり,天久保坂を過ぎて上野田の交差点の少し手前にあります.道路を挟んで向かいにはさぎ山記念公園があります.

亡くなられたお母さまが住まわれていた住宅を改装され,今年の5月から丸園レストハウスとして,かじゅある盆栽の事業や地域でのさまざまな活動に取り組まれています(やどかり農園に畑地を貸してくださっている方でもあります).

 丸さんのお宅に残る先祖の墓石で最も古いものは1693年だそうです.1693年は元禄6年,徳川5代将軍綱吉の時代です.本紙でもたびたび登場する見沼田んぼは8代将軍吉宗の命によって開墾されていますので,それ以前から丸家のご先祖はこの地で暮らしていたわけです.丸さんは文書館などで御成街道のことやこの地域の歴史を調べています.まだ断片的な情報しか集められていないということですが,当時のことに思いめぐらせ,興味深いお話を伺いました.

2.日光御成道の歴史をたどって

1)将軍専用の御成街道,街道沿いの民衆はこの大行列をどう受け止めていたのか

 丸さんは,「数千人の行列が通る際にはその人たちを支える物資の提供や人的支援が求められたはずです.その際にこの地の住民は貴重な収入源として歓迎したのだろうか,どんなおもてなしをしたのか興味深いところです.記録によると4月頃の参内が多く,農繁期でもあり,農業を営む人々には,実はあまり歓迎されない行列として捉えられていたかもしれない,という仮説も成り立ちそうです」と話します.図書館資料で調べると当時支払われた金額などが出てくるのだそうです.「もっと当時の人たちの思いを知りたいと考えています.まだ調査中」と丸さん.

2)見沼の人々と政府や江戸の住民との関係

 見沼田んぼが開拓されたのは,将軍吉宗の時代,享保の大飢饉で食糧難にあえいでいた頃です.丸さんは「吉宗は湿地帯だった見沼に用水を引き,米を作付けし,見沼田んぼは江戸の食糧を支え,江戸の経済基盤を安定させる1つの要因になりました.すでに御成街道でこの地と江戸はつながっていたので,江戸との交流はそれ以前よりあったはずです.見沼代用水や通船堀ができたことで,江戸とを結ぶ水運も発達し,見沼地域と江戸の交流は活発で,江戸とは対等な付き合いがあったのではないかと考えています.見沼地域の人々は江戸を支えているという気概や誇りを抱いて,御成街道の将軍の行列を見つめていたのではないか,見沼と江戸の相互循環関係が成り立っていたのではないかと思うのです」と,代々この地を守ってきた人々に思いを馳せつつ,語ってくれました.

3)白鷺が結ぶ見沼地域と江戸

 徳川吉宗が見沼田んぼを拓いたことによって,鷺が田の中を歩きエサを捕食できる環境が整い,集団営巣するようになりました.そして,鷺は珍重され,徳川紀州家の囲(い)鷺(さぎ)として保護されてきました「日光への参内の途中,将軍・徳川家慶が鷺の様子の視察のために立ち寄った記録も残っています().

この鷺も江戸と見沼地域を結んでいた重要な要素になっていたと考えられます.残念ながらこの鷺は1960年代後半には急速にいなくなるわけですが,1700年代から約240年間守られてきたわけです.地元の人々にとっては大事な存在だったと思います」と丸さん.

3.丸さんにとっての御成街道周辺

 野田の鷺山として有名だった鷺の営巣地は,個人所有の土地にあったそうです.丸さんは,小学校3年生ごろ,「鷺山に外国人が観光バスでやってきました.外国人が珍しいので友達と外国人を見に行ったものです」と.丸さんが小学校3年生くらいまでは,鷺山として成立していて,「当時は鷺山タワー(写真)があって,観光地ではありましたが,直接的に地元へ経済効果があったかどうかはよくわかりません.でも,地元のアイデンティティを感じる場所であったことは確かです.  


 鷺がいなくなったのは,私は小学生ではありましが,当時は寂しかったですね.御成街道の交通量が増え,鷺は騒がしい環境を嫌い,ヘリコプターで農薬散布をするなどの環境変化の中で,鷺は激減しました.地元の私たちにとっては愛着があり,1つの拠り所でした.例えば,私が学生になって,大宮駅からタクシーに乗って『鷺山』と伝えると運転手に伝わる,1980年代のことです.そして,埼玉スタジアム(浦和レッズのホームグラウンド,サッカーの国際試合も開催)も鷺が意匠されていますよね.浦和の銘菓「白鷺宝」も白鷺にちなんだお菓子です」と鷺が地元としっかりと結びついていたことを語ってくれました.

 丸さんは野田小学校に通い,見沼用代用水東縁の支流である天久保用水で遊んだそうです.「天久保用水は水量も豊富で水中に深い渦が巻き,そこに草を投げ入れて遊ぶだけでも楽しくて……その水の音や水の感触が今でも残っています」と話します.子ども時代の思い出が積み重なって,この地への愛着が生まれているのだなあと思いました.

 「行政は見沼田んぼは守っていくが,その外側はどんどん開発が進み,地主たちは,相続税の支払いに困って仕方なく土地を手放すことも多くなっています.このあたりの産業であった植木業を継承することも難しさは増していて,かつての景観も失われつつあります.倉庫に囲まれた見沼田んぼが生まれつつある,それが現状です」と危機感を滲ませます.

 丸園レストハウスを始めたのは,見沼田んぼにはさまざまな団体が保全活動等を展開していて,そうした人たちの拠点の一部になればとの思いがあるとのこと,庭には100年以上前に植栽され,管理されている無農薬・無肥料で品種改良されていない在来種のお茶の木が300メートルにもわたった生け垣になっています.10月には地域の歴史やお茶の歴史をたどりつつ,茶摘みや釜炒り体験をするイベントを企画されています.見沼地域の自然,景観を後世に残したいという丸さんの強い思いが伝わってきました.

4.100年後に残したいこと

 御成街道は,現在では県道105号線とされていますが,時代を経て,400年以上も人々の暮らしを支えてきました.この地は,今はバスや自家用車が交通の中心なのですが,大事なライフラインです.100年後に残したいものを考えた時,この御成街道は欠かせない存在です.そして,丸さんが指摘する自然や景観も100年後に残したい大事な財産です.上野田の交差点を過ぎると間もなく,御成街道の左手に加田屋新田の緑が目に飛び込んできます.

   100年後も見沼地域にある自然と人との関係性を残していくために,私たちに何ができるのでしょうか.丸園レストハウスの取り組みを始めた丸さんが,私たちに投げかけていることは,人々の暮らしが成り立つことと,自然や景観を守ることを同時に考えていくことなのではないでしょうか.それは,御成街道に支えられ,この地の自然を共有している私自身の責任でもあるのです.(記 増田 一世)

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