踏切を訪ねて3 岩槻区
- 並木せつ子
- 4月20日
- 読了時間: 6分
前回は見沼区の18号踏切から41号踏切まで歩きました.もとからあった24か所の踏切のうち残っていたのは12か所.立体交差になった所もありますが,約半分は廃止になっていました.
今回は綾瀬川を渡って岩槻区へ.42号踏切から東岩槻駅の先にある55-2号踏切までです.踏切番号の数字を数えてみると岩槻区は全部で15か所.見沼区は24か所でしたから,踏切の数はもともと少なかったようです.
42号~47号踏切
最初の42号踏切は幅員のわりに交通量の多い踏切でした.少し先に見えるのは東北自動車道の陸橋,欠番の43号踏切があったのはこの陸橋付近です.その先は44号踏切,1950年廃止になった「加倉駅」はこの近くにありました.
地図を見ると,この44号から岩槻駅の先にある48号まで踏切がありません.欠番の45・46・47号踏切はどこにあったのか気をつけながら,線路に寄りそうように歩いて行きました.すると制限高3.3メートルの「線路下トンネル(※)」.気がつけば線路は道路より高い盛土の上にありました(※正式な名称がわからないので「線路下トンネル」としました).

さらに歩くと駅の近くにまた,線路下トンネル(以下,トンネル).ここは制限高2メートルで車両通行禁止です.トンネルは,地面を掘り下げた地下通路とは違い,盛土にあけた穴をくぐる形なので,高さ制限はあっても車両の通行が可能なものも多くあります.最初にみつけたトンネルを(仮称)Aトンネル,駅近くを(仮称)Bトンネルとし,以降は順にC,D……と仮称で呼ぶことにしました.

これらのトンネルは欠番の45~47号踏切だったのではないかとも考えられます.すると1972年の『広報いわつき』(No.197)に手がかりがありました.<通称岡野良線(岩槻乳児院より西原台に通じる道路)に交差する四十六号踏切を,立体交差にするため廃止しました>というお知らせが載っていたのです.地名や施設名から,この46号踏切がAトンネルであることはまちがいありません.ならば駅のそばのBトンネルは47号踏切となります.
もう一つの欠番45号踏切は,1975年の『住宅地図』にヒントが…….44号踏切とAトンネルの間,浄国寺の北側に踏切があります.今は無いこの踏切が,たぶん廃止になった45号でしょう.これで48号踏切までつながりました.
48号踏切~旧武州鉄道跡

岩槻駅を過ぎると国道122号と交差するのが48号踏切.ここの警標は珍しい横縞模様です.49号踏切は欠番.次の50号踏切は愛宕神社の裏手にあり,道路と斜めに交差していて幅員がとても広い踏切です.だから遮断桿もとても長く,降りている時はまっすぐですが,上がると先が折れ曲がるような仕組みになっていました.1965年この踏切に警報機などが設置されたとき,両隣の49号と51号踏切が廃止されたそうです.
51号の痕跡を意識しながら歩いていると,また!トンネル(仮称Cトンネル).さらに進むと岩槻小学校の北側に,またまた!トンネル(仮称Dトンネル).次の踏切はずっと先の53号踏切なので,この二つのトンネルが欠番の51号と52号なのでしょう.それにしてもトンネルの多いこと…….

線路沿いを行くうちに盛土はどんどん高くなって,ついに高架が出現.その下を大きな通りと2本の小さな道が通っています.高架の先も野田線はかなり高い盛土の上を走っていました.最初ここを通ったときは新しく造られた“ただの高架”と思って通り過ぎたのですが,後日調べてみたら歴史的に重要な場所だったことがわかりました.
ここは1929(昭和4)年に野田線が開通したときから高架でした.なぜならこの下には既に「武州鉄道」が通っていたからです.武州鉄道の開通は1924年(1937年廃業),後から開通した野田線は立体交差にすることで,武州鉄道の上に線路を敷設しました.高架下の大通りは「日光御成道」で,武州鉄道はその東側を並行するように走っていました.
武州鉄道の駅はこの近辺に,北から「岩槻北口」「岩槻本通」「岩槻」があったので,野田線の現「岩槻」駅は当時「岩槻町」駅という名まえでした.加倉駅とともに廃止になった「渋江駅」はこの立体交差の高い盛土の上にあったということです.
かつて武州鉄道が走っていたという細い道は今もありますが,それがわかるのは「武州鉄道の小径」という看板だけ.歴史的な背景を知って再度出かけてきたものの,武州鉄道と立体交差したという高架も,素人目にはやはり“ただの高架”にしか見えませんでした.

53号~55-2号踏切

高架から続く盛土に沿ってしばらく歩くと交差点があり,左に53号踏切と鳥居が見えました.鳥居は久伊豆神社で,53号は神社の参道にある踏切なのです.久伊豆神社は主に綾瀬川と元荒川の間に分布する神社で,綾瀬川の西側は氷川神社,元荒川の東側は鹿沼神社,というはっきりした地域分布が見られるそうです.
53号踏切を過ぎても小高い盛土は続き,しばらくは踏切もトンネルもありません.次の踏切は元荒川の向こうにある55号ですから,欠番の54号踏切がこの辺りにあったはず.すると,大きなアンダーパス「宮町本丸地下道路」が…….“これだ”と思ったのですが,1975年の『住宅地図』を見ると踏切はおろか道もありません.どうやら新しくできた道路の新しい立体交差だったようです.
本丸という町名が示すように線路の南側にはかつて岩槻城があり,この辺も城を守るための濠(沼)だったようです.今は住宅地として整備されていますが,標高は他の地域よりやや低めです.そしてもうすぐ元荒川という所にまた!トンネル(仮称Eトンネル).欠番の54号踏切はこれかもしれません.
川の向こう岸へは鉄橋近くにある人道橋で渡ります.この橋ができたのは1978年,それ以前は危険をおかして鉄橋の保線区員用通路を渡る住民が多く,禁止の立看板も柵も効果なしという状態に東武鉄道も苦慮していたとか.橋のおかげで危険を回避,回り道もせずにすむようになりました.

川を渡るとすぐに55号踏切.土手の上にポツンとある踏切は “絵になる風景”です.ここから東岩槻駅まで踏切はなく歩行者用の跨線橋が1か所あるだけ.東岩槻駅は1969年に開業した新駅――当時は北口に平屋の駅舎がある昔ながらの駅だったので,線路を渡るには踏切なり跨線橋なりが必要でした.踏切ではなく跨線橋=立体交差だった点に新しい時代を感じます.
東岩槻駅を過ぎると55-2踏切.きっちりとした歩車分離の道路にあるので,踏切道も遮断桿もちゃんと歩車分離になっていました.56~59号は欠番で(どこまで市内か不明),次の60号踏切はもう春日部市.55-2号がさいたま市最後の野田線踏切です.
岩槻区の特徴は「線路下トンネル」が多いこと―5か所―でした.大宮駅から見沼区まで,こういうトンネルは1か所だけです.欠番の踏切番号をトンネルに当てはめていくと番号がつながることや,踏切の数が野田線の開業当初から少ないことを考え合わせると,廃止した踏切に代わる立体交差だったと思われます.
また線路の多くが「盛土の上にある」ことも特徴の一つです.区全体の標高が低いためだろうか? はたまた,昔岩槻城下の周囲に築かれた,防御のための大構え(土居)の上に線路を敷いたのか? など考えたのですが,どちらもハズレでした.
標高は大宮から岩槻まで,芝川,綾瀬川,元荒川など川の近辺が低いだけで,台地の上は多少の凸凹はあるものの13~15メートル位と大差はありません.岩槻城の大構えも愛宕神社の裏にある50号踏切でかする程度でした.武州鉄道との立体交差の関係も考えられますが,これも確証はありません.岩槻区では“発見”と,“見当違い”ばかりの踏切巡りでしたが,これはこれでおもしろい体験になりました.
このたび野田線を巡って改めて気づいたのは車両の多彩さです.一つの路線に,こんなにいろいろな車両が,特別車両でも急行でもなく,普通に走っているなんて珍しいことではないしょうか.私の野田線に対する評価は1ランク上昇しました.

(記 並木せつ子)
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