踏切を訪ねて2 見沼区
- 並木せつ子
- 1月20日
- 読了時間: 7分
切道(以下〇号踏切)」までやってきました.この18号踏切の前は9号踏切でしたから,この間にあった踏切「10~17号」の8か所がなくなっていて,そのうち立体交差になったのはおそらく3か所だけ.ずいぶん多くの踏切がなくなったことがわかります.野田線の踏切は大宮駅から順番に番号がついていて,廃止や立体交差で踏切がなくなると「欠番」(便宜的な呼称として使用します)になるのですが,9号と18号の間はさいたま市内を走る野田線の中で最も欠番の多い区間です.
畦道踏切
踏切の廃止について,1973年の朝日新聞(11月21日付)にこんな記事がありました.「遠回りへの不便も/春日部駅から野田線に乗って大宮方面へ向かう.駅構内を抜け出したとたん,踏切の連続である.1キロ進むのに十一カ所も出くわしたところがある」と,踏切の多さに加え,その多くが第四種踏切で,車1台がギリギリという幅員の狭い踏切であることを嘆いた記事です.開通時は「田んぼの真ん中を突っ切って線路が敷かれ……畦道ごとに踏切ができ……私道につけた踏切も残っている」状態だったとか.「畦道踏切」という言葉も使われていました.その後,周囲の道路が整備されないまま宅地化が進んだ結果ということです.廃止には地元の同意を得るのが難しいこともあり,踏切の数も第四種踏切も多かった70年代の,おそらく野田線だけではない踏切事情が現れています.
さいたま市内も事情は同じだったはず――10~17号踏切があったあたりは見沼田んぼを突っ切って線路が敷かれているのですから.70年代にはまだ「畦道踏切」があったかもしれません.

大和田駅から七里駅へ(18~28号踏切)
野田線はどの駅も近くに踏切がありますが,18号踏切は駅の隣と言ってもいいほどの近さです.比較的大きな踏切で,人と車と電車がせわしく行きかっています.この踏切を渡り,線路と並行する細い道を行くと,そこは懐かしい風情の床屋さんがあるような静かな道でした.「19号踏切」は欠番ですが,1980年の住宅地図にはそれらしい踏切が載っています.少し歩くと「20号踏切」と「21号踏切」,どちらも大型車両禁止のかわいい踏切ですが,片側1本とはいえ遮断桿のついた第一種踏切です.
21号踏切を過ぎるとすぐ「大和田変電所」があります.ここができたおかげで野田線にも6両編成の電車が運行できるようになったとのこと.そういえば2両編成から4両,6両と車両が増えるたびに駅のホームが長くなっていったものでした.今でもホームを継ぎ足した跡のわかる駅があります.

「22号踏切」は欠番で,次も小さな「23号踏切」です.いくつか続いた小さな踏切ですが,周囲が住宅街のせいか通行量は決して少なくありませんでした.そのまま進むと大きな木々に囲まれた建物が見えてきました.「正福寺」です.市指定文化財の円空作仏像を所蔵,庭にも観音菩薩や六地蔵などの石仏があり,大きなイチョウの木も見事でした.
「24号踏切」は欠番.正福寺の門を出てぐるりと周ると「25号踏切」が見えてきます.この踏切は車道部分の遮断桿とは別に歩道専用の遮断桿がついています.歩道部分は後からつけたのでしょう.警報灯や遮断桿などがたくさん.ここまで小さな踏切が続いたこともあって堂々とした踏切に見えました.
「26号踏切」と「27号踏切」は欠番ですが,1980年の地図では蓮沼小学校のすぐ南側に踏切があります.このときはまだ,どちらか1か所残っていたのでしょう.今は2か所欠番ということで,次の28号踏切まで結構距離がありました.踏切の廃止によってかなりの遠回りをしいられたはず,よくぞ地元の理解が得られたものです.

「28号踏切」は七里駅の西側,“ホームのすぐ近く”という場所にあります.1994年,ここで事件が勃発しました.この踏切から二人乗りのオートバイが進入,そのまま七里駅の構内まで線路上を走ってきたというのです.駅員に見つかった中学生風の2人はオートバイを線路上に置いて逃げましたが,まもなく電車が駅に到着する時刻.駅員が必死で走り駅の手前で停車させたということです(『朝日新聞』11月5日付).けが人もなく15分後には運転再開,すんでの所で大事故は免れましたが,駅から近い踏切だからこその事件と言えなくもありません.
七里駅から綾瀬川まで(29~41号踏切)
「29号踏切」は七里駅前を過ぎてすぐの所.今は駅が高架になりましたが,それ以前は28号か29号の踏切まで行かないと線路を越えられませんでした.ここは県道322号にある交通量の多い踏切なので,写真を撮るにも邪魔にならないよう気を使います.それにしても28号踏切から七里駅前をぬけて29号踏切までの商店街,気のせいか居酒屋が多いような気がしました.それ以外の商店が少ないので居酒屋だけが目立ったのかもしれませんが,地域の特性とか特有の文化とかあるのでしょうか.ちょっと不思議です.
少し歩くと「30号踏切」.遮断桿1本,大型車禁止,の小さな踏切で,夏などそばの林の木々に埋もれてしまいそうです.このあたりからは耕作地が増えてきて,歩いていると心がゆるゆるとほぐれてゆくのがわかります.農業をやりもしないで,田畑を見てほっとしているだけなんて――我ながら勝手なものです.この踏切のそばには「風の子公園」という小さな公園があり,“踏切歩き”のひと休みにはうってつけ,思えばここまでの道のりに“ちょっとひと休み”できる場所は無かったような……気がします.
「31号踏切」は欠番ですが,その割に「32号踏切」はすぐ近く.やはり小さい踏切ですが,北側は急坂になっていて斜めに入ってくる道にあります.しかも渡った先に線路と並行した細い道まであるので,夜など車では通りにくいだろうという踏切でした.この先には見沼代用水東縁があるので,橋のある所まで線路から少し離れた道を進みます.次の踏切まで線路の長さ(距離)はあまりないのに,今は欠番ですが,かつては「33号・34号・35号踏切」がありました.1980年の住宅地図には36号踏切の少し手前に踏切があります.35号と断定はできませんが,欠番の中の一つであることはまちがいありません.

「36号踏切」の周囲は,畑,道,林,民家……それらのすべてが溶け合って心地よい風景を生み出していました.――その空気感を伝えられるような言葉も写真の技術も持ちあわせていないのが残念です.さらに36号踏切がこの風景になじんでいて心地よさを高めていました.市内にこういう場所があるのを嬉しく思います.
次の「37号踏切」も小さな踏切です.1967年の『埼玉新聞』(5月12日付)に「ここに踏み切りあり/大宮に回転式警戒標識」という見出しの記事が載っています.これは37号踏切のことで,おそらく警報機も遮断桿もない第四種踏切だったのでしょう.“見通しが悪く事故が多かったため,地元から警報機設置の要望が出されていたのですが,このたび大宮署が標識をとりつけた”という内容.その標識は「赤と黄二色の標識板が風の力で回転する仕組み」のもので,標識板の写真(モノクロ)も掲載されています.回転することで「地元の人たちも『これなら目につく』といっている」と喜んでいたようですが,風が吹かなければ回転しないのですから,普及しなかったのもうなずけます.
この記事に気になる点がありました.「37号踏切(通称観音堂踏切)」と書かれていたことです.観音堂があるのでしょうか.『見沼区ガイドマップ』(2024)を見ると,近くに「卍金光山不動尊」とあります.地図の該当場所へ行くと,地域の集会所のような建物がありました.祠よりは大きく,でもあまりお堂という感じのしない建物.施錠されていて人の気配はありません.そばに「大宮市指定/文化財彫刻/観音堂円空作竜頭観音像他三躰」と書かれた標柱が建っていたので,ここが観音堂だと確信はしましたが,防火や保存を考えると“まさかここに円空仏が?”と思うくらい無防備でした.文化財の説明板だったとおぼしき看板はありましたが文字は見えませんでした.
後日『大宮の文化財』等で調べてみると,昭和36年12月9日大宮市文化財に指定された4躰の円空仏――竜頭観音像,菩薩像,神像2躰でした.「かつて宮ケ谷塔観音堂(長島家の北側)に安置されており,秘仏とされて拝むと目が潰れるとの言い伝え」があったとか.個人蔵ですが,現在はさいたま市立博物館に保管されています.25号踏切の近くにあった正福寺もそうですが,中川の円蔵院,南中野の正法院など,見沼区は円空仏を蔵する寺院や個人が多い地域ということも知りました.
次は「38・39・40号踏切」の3か所が欠番でいきなり「41号踏切」です.間には東大宮バイパスが横切っていて「宮ケ谷塔陸橋」がかかっていますから,欠番のうち一つ(たぶん39号)は場所が少しずれるものの立体交差になったと言えます.1980年の地図には「バイパス工事中」と点線が描かれ,まだ3か所の踏切がありました.
宮ケ谷塔陸橋を過ぎ深作川を渡ると「41号踏切」,見沼区最後の踏切です.線路沿いの細い道を歩くと,遮るものが無いので遠くからでも踏切が見えます.欠番の一つは41号踏切の見えるこの辺りにありました.「畦道踏切」に近いものだったのでしょうが,近くの踏切が廃止になれば,線路の向こうの畑へ行くのに離れた踏切まで行かなければなりません.不便に感じたことでしょう.41号踏切を過ぎるとすぐに綾瀬川.向こう側はもう岩槻区です.

(記 並木せつ子)
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