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赤山渋

南部領辻では,御成道からそれて鷲神社へ行ってみました.「辻の獅子舞」(さいたま市指定無形民俗文化財)が奉納される神社です.地図を見ると細い道がくねくねとつながっていてたどり着けるか不安でしたが,予想のとおり行き止まりだったり人家に入る道だったり…….高校生のときも地図を見ながら歩いていたのに,いつの間にか人家の庭に迷い込んでしまったことがあったのを思い出します.


植木畑が続く中,地図を何度も確認してやっとたどり着きました.小さいけれど厳かなお社です.ここは見沼代用水東縁に近く,豊かな社叢の境内でひと休みすると,汗をかいた体に風が心地よく感じられます.聞こえるのは木の葉をゆらす風の音だけ.自然と敬虔な気持ちになってしまいました.



実際に巡ったのは以上ですが,既に訪ねようのない所もありました.かつてこの地域の特産品だった「赤山渋」と呼ばれる柿渋関連の場所です.何年か前たまたま見ていたテレビで,柿渋が見沼周辺の特産品だったということを知りました.さらに最近,さいたま市立博物館で「赤山渋」の特別展が開催され,ますます興味深く思っていたのです.


赤山渋は,綾瀬川と芝川にはさまれた大宮台地上の川口北部,浦和・大宮の東部を中心とした見沼周辺で製造されていた柿渋です.傘,漁網,伊勢型紙,塗料など,防腐性と防水性を生かした用途に古くから使われてきましたが,この地域では江戸時代後期から商品として製造するようになりました.それが江戸や関東各地に流通し,赤山渋と呼ばれるようになったのです.


柿渋の生産農家は自家で栽培した柿だけではなく,周辺の農家からも渋柿を買い集め,8月のお盆過ぎに大勢の人で昼夜を問わず渋作り(柿を臼でつく→発酵させる→絞る)に専念しました.生産農家は柿を買ったり人を雇ったりする資金も必要なため,村役や名主など村内の有力者が多かったということです.戦後,化学製品の普及で柿渋は使われなくなり,1977(昭和52)年上野田の萩原家を最後に赤山渋の生産農家はなくなりました.


もう随分前の秋,片柳で何本もの大きな柿の木に,小さな朱い実が鈴生りになっているのを見たことがあります.あれは渋をとるための柿だったのではないでしょうか.柿渋が作られなくなって,実はもぎとられることなく放置されていたと考えれば納得できます.この柿の木は数年前になくなってしまいましたが,七里小学校のホームページには赤山渋の紹介にそえて<現在でも当時の柿並木を見ることができます>と書かれています.川口市では赤山渋を再現しようという活動があります.また見沼周辺には「渋屋」という屋号の家が残っているとのこと.赤山渋が忘れ去られたわけではないと嬉しく思いました.

見沼全体がそうであるように,今回歩いたこの辺りも新興住宅が立ち並ぶ地域と,耕作放棄地,宅地造成中の茶色い地面が増えていて,私が50年以上前に見たような農村風景を目にすることはかないませんでした.東北自動車道も,埼玉スタジアムも,浦和美園駅も無かったころですから無理もありません.天候だけはあの夏と同じ“晴れた暑い日”だったのですが,爽やかな気持ちで思い返せる一日となりました.(記 並木せつ子)


出典:よみさんぽ 2022 Vol.42より

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