見沼田んぼの前身・見沼溜井
伊奈氏代々のお墓がある源長寺にお参りし,赤山陣屋に戻ります.
東京外環自動車道と東北自動車道の交差する川口ジャンクションの東南側あたり,陣屋には新町口,越ケ谷口,安行口,鳩ヶ谷口があって,そこから大宮道,越ケ谷道,千住道(足立方面)が作られていました.
大宮道は,外環自動車道,国道122号を越えて東浦和駅に向かいます.私はウン十年前,通学でここを原付で走っていました.今は広いバイパスもできていますが,こちらの道は細くよく渋滞していました.
芝川にかかる八丁橋,江戸時代(1629年),忠治がここに八丁堤を築きました.大宮一帯に広がる台地の谷間に見沼という大きな自然の沼がありました.これに八丁(約870m)の堤を築き川の流れを堰き止め,見沼をダム湖にしたのです(見沼溜井〈みぬまためい〉).
それから約100年後,徳川吉宗の命で井沢弥惣兵衛為永が1,200ヘクタールにも及ぶ見沼溜井を干拓し,見沼田んぼができました.この田んぼには,利根川から約60kmに及ぶ堀を築いて見沼代用水を引きました.
この辺りでは,芝川・荒川と見沼代用水の水運をつなぐ見沼通船堀や水神社,見沼干拓事業
に参加し通船業務を行った清水家,附島氷川女体神社など散策できます.
水神を祀る
東浦和駅前を過ぎて右手に折れると大間木氷川神社があります.1667(寛文6)年に大宮の武蔵国一宮氷川神社の造り替えの際に旧本殿を買い受けて建立したそうです.それにしても氷川神社のなんと多いこと.それだけ川の氾濫などに暮らしが左右され水の恵みを祈ったことかと感じます.
大宮氷川神社も広大にあった見沼の畔にあり,もとは見沼の水神を祀っていたと考えられているそうです.ちなみに家康が関東に入った時に忠次が大宮氷川神社の社頭を造営しました.
江戸時代初期には,氷川参道に中山道がかかっていたましたが,これを恐れ多いと宿の人たちの意見を受け,現在の位置に移動させたのが忠治だそうです.
(記 永瀬恵美子)
~出典~さいたま市ホームページ>グラフ誌版広報誌「楽楽楽さいたま」秋葉一男・青木義脩編:埼玉ふるさと散歩
さいたま市,2003年川口市教育委員会文化財課:歴史絵本 伊奈☆忠治,2022年街道歩き旅.com>歴史街道あるき旅
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