前回は,長い間疑問に思っていたバス停の名まえを調べてみて,思いがけなく昔の村名や小字名が多いということを知りました.バス停は狭いエリアに複数あるので,現在の住居表示だけでは足りず,昔の名まえの出番となったのでしょう.たとえば大宮区堀の内にあるバス停の場合――「堀の内」「堀の内三丁目」「東堀の内」「南堀の内」「堀の内一丁目」「堀の内橋」,初めて乗る人でなくてもまちがえそうです.
地名ではないバス停
「観音前」「天神前」「天王前」「稲荷前」など,信仰の痕跡を残すバス停も多くありました.見沼区南中野にある「庚申塚(こうしんづか)」も,ここに庚申塔があったことに由来しています.『大宮の庚申塔』によれば<「庚申塚」と「庚申塔」のハッキリした区別のないまま,庚申塔を庚申塚と呼び習わしていたのではないでしょうか>とのこと,ここも塚があったわけではないようです.この庚申塔は近くの庚申塚公園に移されました.
南区太田窪には「二十三夜(にじゅうさんや)」というバス停があります.信号にこの名まえがつけられるほど,通称として親しまれてきました.そばにある1832(天保3)年の二十三夜供養塔が由来です.どちらも地名ではありませんが,庚申信仰や二十三夜信仰があったからこその名まえです.
北区東大成町にある「赤芝」バス停も――最近は「赤芝・大宮中央総合病院入口」になりました――地名ではありませんが,“赤芝まで”と言えばタクシーの運転手さんにも通用する名まえです.なぜ“アカシバ”か? と深く考えることもなく,近くにある昭和10年創業の“赤柴魚店”と関わりがあるのだろうと勝手に考えていました.店主に伺うと“アカシバ”とは言っても,バス停の「赤芝」とは別系統とのことで,なるほど赤柴と赤芝,字が違います.赤芝家はこの交差点付近の地主だったそうで,中山道を走る「上尾」行のバスが,ここに止まらなかった昔,停留所の誘致に尽力したとのこと.それで「赤芝」というバス停になったそうです.
緑区原山にあるバス停「花月」も地名ではありません.浦和駅から東浦和や東川口方面へ行く路線にあって,バスの行き先表示でもよく見かけます.『さいたま市地名の由来』によれば,<かつてそこにあった店の名前で……今,「花月」と書いた道路標識が掲げられている>とのこと.その店を知る人は既にいなくても,今なお通称として親しまれています.
いかにも由緒のありそうな「鈴谷札の辻󠄀」は中央区にあるバス停です.「辻󠄀」そのものは村名や小字によくありますし,「札の(ノ)辻󠄀」も交差点や通りの名,地名として各地にあるようですが,これは鈴谷の地名ではありません.『武蔵國郡村誌』の鈴谷村の項には,<掲示場 本村の南にあり>と,制札を掲げる場所があったことが記載されています.このバス停あたりがその場所だったのでしょうか.
変わるバス停
時の流れとともにバス停も位置や名まえを変えてきています.前の号でとりあげた「御蔵騎西屋」と「御蔵火の見下」が,2022年から「鎌倉公園入口」と「片柳保育園前」に変わったような例です.古い住宅地図を見ると「御蔵騎西屋」バス停のそばに騎西屋があります.実際に現地へ行くと,騎西屋のあった場所はセブンイレブンに変わり,「火の見下」のバス停付近に火の見櫓(やぐら)はありませんでした.バス停の名まえが変わるのも無理はありません.もう一つの発見は,1998年版の住宅地図には「御蔵騎西屋」しか載っていない――つまり「火の見下」はまだなかったということです.2001年になると両方載っているので,このバス停は2000年前後に新設されたものと思われます.地図上では“消防団器材置き場”しか確認できませんが,当時は火の見櫓もあったのでしょう.
大宮駅西口から二つ目,「新国道」というバス停があります.これは国道17号のことです.
一般国道17号と定められたのは1962(昭和37)年ですが,その後もしばらくは“新国道”と言う人のほうが多かったように思います.『埼玉県市町村誌』によれば,1970(昭和45)年には浦和にも,県庁通りと17号の交差点に「新国道」というバス停がありました.ところが1977(昭和52)年に出版された『わがまち浦和』では,そこが「検察庁前」に変わっていす.“新国道”と言う人よりも“17号”と言う人のほうが多くなってきたのは,このころ――昭和50年代以降だったのかもしれません.その後,このバス停は「県庁前」に移設統合されました.
ほかにも,大宮区土手町にあった「大宮警察」は警察署の移転に伴い「北大宮駅入口」に,「富士重工」はずいぶん前に「北区役所前」に変わりました.大宮駅から「宮下」方面への路線にあった,見沼区の「八木アンテナ」は「タムロン前」に変わりました.
消えたバス路線
路線そのものが変更になったり廃止になったりした例もあります.とくにさいたま新都心駅付近は道路そのものが変わってしまったので,バス停も路線も大きく変わりました.『バス停留所』(2010年刊)という全国のバス停風景を写した写真集に,旧大宮市のバス停が2か所掲載されています.そのうちの一つ,さいたま新都心近くにあった「北袋住宅」も今はありません.
さいたま市から上尾駅へ行くバスも,かつては浦和駅西口から旧中山道をひたすら走り,北浦和駅・与野駅・大宮駅を経て上尾駅まで,乗り換えなしで行けるという路線がありました.今も「大宮駅―上尾駅」間はありますが,中山道経由で「浦和駅―大宮駅」間をつなぐ路線はなくなり,北浦和駅と新都心駅の間にあった旧中山道沿いのバス停も(「針ヶ谷」「大原」「三菱研究所」「高台橋」など)なくなりました.また与野駅西口から本町通りまで,直線の道を行くバス路線がなくなり,この間は30分近く歩くしかありません.
『埼玉県市町村誌』を見ると,1970年頃には,市境を越えて遠くまで行く路線が,今よりずっと多かったことがわかります.浦和駅から池袋駅東口(蕨,戸田橋,志村坂上経由)に行くバスは一日40本運行され,ほかに春日部駅,草加駅,鳩ケ谷駅,所沢駅,本川越駅へ行く路線もありました.大宮駅からは,岩槻経由で白岡市の岡泉や幸手駅へ行く路線,桶川経由や蓮田経由で菖蒲町(現久喜市)へ行く路線,さらに上尾・吹上などを経由して熊谷駅まで行く路線もありました.また蓮田駅と京成関屋駅(足立区千住曙町)を結ぶバスがあって,岩槻駅や風渡野,大門などを通っていました.昔の武州鉄道を想わせるような路線です.
増えるバス路線
一方で,増えた路線やバス停もあります.前出の「御蔵火の見下(片柳保育園前)」もそうですし,前の号でとりあげた「中川循環」も,1990年版の住宅地図にはバス停が一つも記載されておらず,この路線はまだ運行されていなかったことがわかります.1992年版には記載されているので,1991年前後に運行を開始した路線と思われます.
2022年版の『さいたま市バス路線マップ』に,初めて目にするバス停をみつけました.浦和駅から「桜区役所」へ行く路線にある「西堀氷川トンネル」や「鯛ヶ窪(たいがくぼ)橋」です.この路線,2021年版には載っていないので運行を開始したばかりのようです.これまでも桜区役所方面へ行くバスは複数ありましたが,どれもさいたま市役所の北側にある六間道路(さいたま鴻巣線)を経由していました.新しい路線は市役所のすぐ南側の道――市役所通りを西へ,ほぼまっすぐに大戸や西堀を通って行きます.
市役所通りは越ヶ谷街道からつながる道ですが,“市役所の先には墓地があって,たしか道はくねっていたはず,まっすぐに西へ抜ける道などあっただろうか……”.かなり昔のあいまいな記憶なので現地へ行ってみることにしました.しばらくぶり(おそらく20年以上前)に見る市役所通りにびっくりです.JR武蔵野線大宮支線(貨物線)を越える大きな橋ができ,広い道が一直線に西へ向かっていました.この道は新大宮バイパスまで続く“町谷本太線”で,2018年に全線開通したそうです.そして大きな橋は鯛ヶ窪橋といい,バス停の名まえにもなっていました.“鯛ヶ窪”は昔の小字名です.
おもしろいバス停
バス路線マップを見ていて,もう一つおもしろいことに気づきました.大宮駅西口にほど近いバス停「切引(きりひき)川」です.この川は正式名称を鴻(こう)沼(ぬま)川(鴻沼排水路)といい,北区のつばさ小学校に水源をもつ一級河川です.上流の大宮や与野の北部では切敷(きりしき)川,南与野より下流では鴻(こう)沼(ぬま)川と呼ぶ人が多いようです.このバス停あたりで“キリヒキ川”になったのは,“布団を敷く”を“ヒク”と発音する人がいるのと同じような経緯でしょうか.漢字も“引”があてられています.
さらにおもしろいのは,同じ路線にもかかわらず中央区に入ると,北与野駅近くに「与野霧敷(きりしき)川」というバス停があることです.“キリシキ川”になっており,しかも「切」ではなく「霧」.また,同じ“コウヌマ”でも排水路は“鴻(こう)沼(ぬま)川”,用水路は“高沼(こうぬま)用水”……よそ者には実にわかりにくいのです.それだけ地域の人びとと結びつきが強かったと言えるのかもしれません.ちなみに流域の旧上小村田村(中央区)には“切敷”という小字があり,東大成町(北区)にある1860(安政7)年の道標には,建立者の名まえの中に“切敷”という姓が刻まれています.
今回は,さいたま市内に多くのバス路線があることを再認識しました.そして初めて降り立つバス停は普通の住宅街さえ新鮮で,まだ乗ったことのないバス路線で,あてもなく終点まで行ってみたくなりました.(記 並木せつ子)
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